私が子供だった頃…その3

「あの頃は」奥村(算数・数学科)
 この原稿の依頼を受けて、改めて私も小学生の頃があったのだと気づかされた。随分遠い昔のことなので何かを思い出せるのだろうかと不安ではあったが、実際自分が小学生だった頃に思いを馳せると、去年の出来事よりもむしろ鮮明に思い出せることにびっくりした。
 長野県の南のはずれの人口6~7万人の小さな市で育った私にとって、小学生時代の思い出は自然との触れあいだったと言えるだろう。小学生時代屋外で遊ぶことが多かった私にとって、季節の変化はにおいで感じるものだったという実感がある。例えば、早春の土の香り、夏の夕立直後のアスファルトのにおい、秋の枯れ葉のにおい、そして冬の夜に降り続く雪の湿った香りなどは今でも無性に懐かしく感じられる。
 私の小学生時代は小学校は楽しい所、学校の先生や親はこわい人、遊び場所を取り囲む自然はやさしい物とひどく単純なものであったように思う。毎日のように学校の先生に叱られ、廊下に立たされても、毎学期通知票に「落ちつきがない」「根気がない」と書かれても、何のストレスもなく、季節の空気のにおいをかぎ、雲の流れるのも見ていた頃は幸福であったと思う。
 こんな私の小学生時代を思い出すと現在の小学生のことを考えずにはいられない。携帯電話、テレビゲームなど私の頃と比べて文明は数段進歩しているが、その反面子供たちにはどれほどのストレスがかかっているのだろうと想像すると少し悲しくさえ思える。すべての小学生が大人になり、遠い昔の小学生だった頃を思い出した時、「幸福だったよね」と思えるような日常を、現在大人になった私が彼らに提供できたらいいなと思いながら自分の昔を思い出していた。

「My Days」水野(英語科)
 私の育った京都府では、公立高校間の格差が全くなく、一定以上のレベルの生徒がみんな地域の同じ高校へ進学できる仕組みになっていた。だから受験などないに等しく、中学3年間のあいだはずっと同じクラスで、若く元気な女の担任はひたすら「仲間づくり」に燃えていた。スポーツで活躍する生徒はもてはやされるが、勉強の得意な生徒は目立たなかった。当然後者だった私は、しかし、クラスの「学習委員長」として他の生徒に勉強を教えるという役割を任され、担任からはもちろん、スポーツの得意なクラスのリーダ-格からも一目置かれていた。その辺の中学教師などよりは知識もあったから、教師の間違いを指摘してやりこめることも多かった。
 塾なんて影すらない田舎で、それでも私は幼い項から「自分は大学まで行かなければダメだ」という思い込みがあったので、一人で勉強していた。と言っても「努力」はニガテで、気が向けば何時間でも机に向かうが、向かなければ何日も放ったらかすという、かなり気ままなやり方。それでも、中1の頃に方程式の文章題が問題集の解説を見ても分からずいらいらして泣きながら勉強していたことや、 do/doesの区別を何度も繰り返しながらクリアーして行ったこと、また試験前には、社会の教科書をこたつに入って全文暗唱していたこと、などが思い出される。よくやったな、自分。
 中3の6月に、初めて府内全域にまたがる実力テストが実施されて、採点すると5科目250点中、 240点取れていた。校内2位が166点だったから、偏差値は83あった。「京都府を制覇したミーノくん」という伝説が一夜にしてうち立てられた。このときの快感は忘れられない。
 かと言って、ガリ勉亡者みたいなのを想像しないでほしい。クラスでは、今で言ういじられキャラで、でも試験前になると「明日4時にうち来て勉強教えて」「俺は6時ね」という具合に引っ張りだこだったし、クラス委員の常連として活躍もしていたのだからね。合唱祭では、課題曲の他に自分たちで作詞作曲した歌をうたったり、体育祭で応援団のバックに掲げる「アーチ」という巨大な絵を作成したり、思い出は尽きない。
 しかしそうした生活のなかでも私は、大学、それも(うちにはお金がないので)国立大学へ行かなければ、という自分の目標は常に念頭に置いていた。
 そのための勉強をすべて一人でおこなっていたことは、我ながらいじらしいと思うと同時に、この塾のみなさんがうらやましいと心から思う。

「僕の中学時代」中田(国語科)
 中学のときに一番感動したことは「英語」だった。よくあるように中1でつまずき、中2でわけが分からなくなり、「オレは日本人だ」と開き直るほどに英語は一番遠ざけていた教科だった。そもそもが勉強に対して熱心ではなかったし、ちょっとやればいつだって出来るようになるさって、何を根拠に考えていたのかもわからない妙な自信があった。そのミエでしかない「自信」がことごとく崩壊したのが中3の7月のことだった。
 一学期の内申が出て、1時間にわたる担任の家庭訪問があって、ついに親は爆発! あのクソ暑い自分の部屋で100分にわたって説教された。「自分のやっていることは全部自分にかえってくる。中途半端にやるんだったら、そんなもんやめてしまえ!」
 さすがにショックを受けた。初めての悔し涙だった。それはその通りだった。勉強だけでなく部活においても中途半端だったからだ。中2前半までのサッカー部、次は野球部。いずれも中途半端なかたちでしかやりきれていない。
7月20日。夏休みが始まった。そこからの1ヶ月、ノルマを決めて午前中・午後少し・そして夜と5教科を差別なく総復習した。塾なんてない山奥のど田舎だったから、すべて自力でやっていくしかなかった。目指すは8月20日の東海テスト(東京でいえばV模擬のようなもの)。そう決めてからは無心だったと思う。
 とにかく基本を押さえていくことに専念した。基本の大事さはサッカーや野球の練習でもわかっていたから。だからえらそうに難問に挑戦だなんてこれっぽっちも思わなかった。あの西日の差す暑い部屋で大好きなロックも流さずに勉強ばかりしていた。しばらくすると、それが当たり前のような生活になり、「わかる」ということの楽しさも感じ始めていた。わかるってけっこう感動することなんだなって思った。
 迎えた8月20日の登校日。テストの最中のことはもう覚えていないが、受け終わったときは晴れ晴れしていた。2週間後、結果が渡されたが、そのときが一番感動したんだろうな。もっとも苦手だった英語が、一番よかったのだ。そうなるともう調子づいて、そこからの半年は勉強が楽しかった。英語が楽しかった。関係代名詞ってすごいなぁって思った。理屈がわかるとこんなにもすんなりと頭の中に入ってくるのだからびっくりした。
 ということで、親の一言が自分を変えた……だなんて意地でも思いたくないが、自分の中の「何か」を引き出してくれたのは、あの夏のあの一言だったんだと思う。中3の夏、この経験は自分の財産なんだと思う。

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