私が子供だった頃…その4

「いじめられっ子、柔道に出会う-その後」佐藤(英語科)
小学時代いじめられっ子だった僕が柔道に出会ってから立場が逆転したということは以前この場で書いた。僕はその柔道を高校まで続けたが、中学時代にスポット当てて今回は書いてみようと思う。
僕の入学した中学校には柔道部がなかった。だから中学一年の春、僕が選んだ部活動は吹奏楽部だった。音楽が好きだった僕にはぴったりの部活だと思ったのと、小学校5年生の頃から好きだったウエノユキコちゃんが吹奏楽部に入ったからだ。しかし、入部初日から当てが外れてしまった。
部活の顧問はサトウチエ先生という小柄な二十代半ばの人で東北出身の気の強そうな女性であったが、彼女が新入部員の担当楽器を決めていくのだった。僕の希望はサックスかフルートだった。小学時代からジャズが好きな、知らない大人から見ると「いけ好(す)かない子供」であった僕のあこがれはナベサダことアルトサックス奏者の渡辺貞夫だった。だから僕も吹奏楽部でアルトサックスをかっこよく吹きたい希望に胸をふくらませていた。でも、サトウチエ先生のこの一言で僕のナベサダへの夢は崩れ去ってしまう。
「佐藤君は体が大きいからチューバをやんなさい」
「えっ?」
その日僕はチューバのパートリーダーであるホシナ先輩からチューバのマウスピースをもらい、こう言われる。
「おまえら、ドとソとドの音が出るまでは楽器をもてるとは思うなよ。まぁ、一週間はかかると思うけどな。フヘッヘッヘ」 やなヤツ。
僕ら-チューバには僕のほかにナカムラフミタカ君がいた-は音楽室の外の廊下に出て椅子に座って、ひたすらドとソとドの音をマウスピースで吹けるように練習した。けど、僕らはその日一日でドとソとドが吹けるようになってしまったのだ。面目丸つぶれのホシナ先輩は顔を真っ赤にして、翌日から僕らに意地悪をし始めた。それがとてもいやなやり方だったので僕は彼をぶっ飛ばして一週間で吹奏楽部を辞めてしまった。
部活動をやめて帰宅部になった僕の中一時代は散々なものだった。担任の先生はツジアサシロウという数学を教えるまったく冗談の通じない堅物(かたぶつ)で、そんな彼は僕を散々(さんざん)目(め)の敵(かたき)にした。なぜかはわからないけど目の敵にされてしまったのだ。花火をしていたら翌日ばれて職員室でガツン。初夏の日夕方7時くらいまで港で釣りをしていたら「外出時間を守らんか」とガツン。女子に嫌がらせをしているキクチユキトをぶっ飛ばしたら「なぜぶっ飛ばすんだ」と僕だけガツン。学校一の悪(わる)ナカジマユタカが持ってきてはいけない本を僕にたまたま見せようと渡したところに運悪くサトウチエ先生が通りかかり、アサシロウに伝え、校内放送で「サトウ!すぐ職員室にこーい!」と呼び出され「お前が持ってきたんだろう!」とガツンガツンガツン。散々だった。
でも、中学二年に進級するときクラス替えがあり、担任の先生もエノキケンゾウ先生に代わり、暗黒のアサシロウ先生からは解放された。けど、元々僕らの中でケンゾウ先生の評判はすこぶる悪くめちゃくちゃ怖い先生だという噂(うわさ)があった。けどそんな噂はまったくの嘘っぱちでケンゾウ先生は最高にいい先生だった。そして運良く小学時代から同じ道場に通っていた連中がみんな同じクラスになってしまったのだから僕らは盛り上がった。「な、柔道部を作らないか」「おぉ、いいね、それ」「でも、顧問(こもん)の先生がいねぇだろうが」「ケンゾウ先生に頼んでみないか?」
僕たちは職員室まで直談判(じかだんぱん)に行った。ケンゾウ先生はしばらく考えて「わかった」と言ってくれた。「けど、俺は練習は見にいかねぇよ。こんなやせぽっちな俺がおまえらと柔道やったら骨が何本あっても足りやしねぇよ」僕らはそれでもよかった。顧問の先生さえいてくれれば地区大会や全道大会への道が開くのだ。時は五月。地区大会まであと一ヶ月の頃だったと思う。
新しくできた我らが柔道部は学校内の他の部活動からはすこぶる評判が悪かった。特に男子部活動の花形(はながた)の野球部と女子の花形のバレーボール部の連中からは「柔道部、クサいからあっちいけ」とか「あ、ゾウキンダンス部じゃないか」とかバカにされた。けど、僕らの腰には全員黒帯が巻かれていたのだ。いくら野球部が女子にもてようがおいそれとは僕たちに手出しはできないのである。
そんな僕らは地区大会に出て見事優勝した。個人戦ではナカジマユタカ君が優勝をかっさらい、僕らは中学校に戻り月曜日の全校朝会で壇上(だんじょう)に上がり校長先生からお褒(ほ)めの言葉をいただいた。僕らを「クサイ、きたない」と馬鹿にしていた野球部とバレー部は一回戦負けだった。ざまーみろ!
夏休みに入り、僕らは全道大会に出場したが、結果は一回戦負けだった。ナカジマ君も一回戦負け。僕の対戦相手は190センチ160キロ、中学卒業後は相撲(すもう)部屋(べや)にスカウトされているという巨漢(きょかん)だった。ここで僕が姿(すがた)三四郎(さんしろう)(古いか)よろしく背負い投げでぶん投げたとなればかっこがいいのだが、世の中そうはうまくいかないのである。押しつぶされ160キロに押さえ込まれ、あふれんばかりのお腹の肉を顔に押しつけられ、一本負けをしたのである。(死ぬかと思った)
僕らは全道大会で一回戦負けをしたけど、気持ちはとてもすがすがしかった。楽しいケンゾウ先生や道場の仲間と地区大会や全道大会へ泊まりがけで参加できたし、僕たちの後輩がその姿を見ていてくれた。うれしいかな、僕らが道場で稽古(けいこ)の相手をしていた小学下級生のチビたちが中学高校とメキメキ力をつけ最終的には全国大会まで行けたのである。
今でも実家に帰ると中年面(ちゅうねんづら)になった当時の後輩たちと街でばったりあったりする。顔は中年のオヤジだけれど、優しい目はあの当時のままだ。そんなとき僕は古里(ふるさと)のあたたかさを実感する。

「あぐおくんのこと」水野(英語科)
 僕が子どもの頃、近くに「あぐおくん」という脳性まひの人が暮らしていた。当時20歳代だっただろうか、もうヒゲの生えたおとなだが、立つこともできず、もうおばあさんと言っていいくらいの年齢の母親が引く大きなリヤカーに乗せられて移動していた。野良仕事をする母親を、リヤカーの上から眺めて一日を過ごすのである。そして私たち子どもが通りかかるのを見ると、よだれの垂れたロからしぼり出すように「おう-い」と呼ぶのだった。思うようにならない腕を、舞うように揺すりながら。子どもたちは、あぐおくんを避けるようにして通り過ぎた。
 ある日、弟が外から帰ってきて言った。 「さっきなあ、お宮さん(神社の境内のこと)で缶蹴りしとったら、あぐおくんとお母さんが来て…」弟の話によると、あぐおくんのお母さんは、 「みんな集まっとくれ~」と弟たちを呼び集めると、こう言ったそうだ。 「今日は、あぐおの誕生日だで、赤飯炊いただ。みんなで祝ってやってくれえ。」そして、おそるおそる差し出された子どもたちの手のひらに、じかに赤飯を盛って配ったという。 「気持ちわるうて、食えなんだわあ。」と、弟は報告した。それを聞いて僕は、「そこにおらなんで良かった。そんな、あぐおくんのよだれがついてそうな赤飯、もらっても困るし…」と、言った。はっきり言うと、僕も彼を「気持ち悪い」と思っている子どものうちのひとり、だった。
 話はこれだけだが、あれから30年もたった今も、あぐおくんと、そのお母さんのことがなぜか思い出されてならない。父親は、家出したとかで、いなかった。母一人子一人の暮らし、重い障害を抱えた息子の誕生日なんて、他の誰も祝ってはくれなかっただろう。けれどもお母さんにとってはうれしい日だったに違いない。だからいっぱい赤飯を炊いた。あぐおくんのロからそれはポロポロこぼれただろう。誰とも分かち合えない喜びの日。そうだ、お宮さんにお参りするついでに、チビらに祝ってもらおうか…。
 最近田舎に帰ったとき、母に聞いた。「あぐおくんのお母さんは、どうなった?」「もう亡くなった。」 「あぐおくんは?」 「施設に引き取られたよ。」
 「身障」などといって人をバカにしたりする子どもたち。大人たちだって、他人事ならばどう思っているかわかったものではない。障害を背負わされたのが、自分でなくてよかった。自分の子でなくてよかった。自分もその当時は、そんな一人だった。偉そうなことは言いたくない。だが思い返すと、あぐおくんのお母さんは、いつもにこにこと笑っていた。確かに彼女は幸せだったのだ。幾つになっても手がかかる、かわいい息子の、誕生日。


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